三保半島は、安倍川(あべかわ)上流部や有度山(うどさん)南壁から波によって運ばれた土砂が堆積し形成された砂嘴(さし)と呼ばれる地形です。このように海に浮かび上がったような地形を昔は「洲浜(すはま)」とも呼びました。日本庭園にも洲浜紋と呼ぶ意匠があるように日本人はこの地形に現実と異なる悠久な世界、異次元な空間を意識しました。
波に洗われて栄養の少ない洲浜を好んで育ったのが黒松でした。洲浜には松が育ち、全国随一の三保松原を築きました。三保の洲浜は富士山に向かって真っすぐ伸び、富士へと繋がる松の架け橋、富士を眺めるために海に浮かべた浮舞台のようでした。多くの芸術家がこの景観に魅了され、富士山と三保を表現した文学や絵画を数多く残しています。
奈良時代には、天女が舞い降りたという「羽衣伝説」が語られ、日本最古の歌集『万葉集』にも三保松原を詠んだ和歌があるように、平安時代には「白砂青松」と富士山の眺望で全国にその名が知られていました。江戸時代になると、三保松原を手前に配した構図が富士山を描く日本画の典型となっていたほか、多くの歌人が三保松原を歌枕にした作品を残しています。
また、富士山は古くから神が宿る山として崇められ、「富士曼荼羅図」に見られるように、霊峰富士への信仰や参詣の様子が描かれた絵図に三保松原が描かれているのは、三保松原が富士山信仰の一部として捉えられていたことを示しています。
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